『ビッグファットキャット』シリーズ [レビュー]
※レイアウトが崩れてます。すみません。。。
英語を学ぶにもいろいろ目的があると思うのですが、そのとっかかりにおすすめしたいのが『ビッグファットキャット』シリーズ。いわずとしれた2002年の大ベストセラーで、準備偏(←と勝手に名づけた)は発売3ヶ月で150万部が売れたそうです。物語は第1巻から第7巻(2004年)で完結しましたが、いまも売れ続けている評価の高い本です。
準備偏がこちら↓
どの英語の教科書よりも、英語の本質を分かりやすく説明しています。しかも文法用語はゼロ。英語を英語のままで理解できるよう、丁寧に誘導されています。私はこのシリーズを読んでからシドニーに行ったのですが、とても役に立ちました(←シドニーにもって行けばよかったと思ったぐらい)。
私は中高生のときの異常な英語教育(←主に塾)で、英語の基礎の部分が混乱したまま大学生になってしまって非常に苦労した経験があります。この本を読んだときに、「なるほどね!」と感動したのと同時に、「こんなふうに最初から教わりたかった」と強く思いました。英語の文法って、近代日本語と比べると信じがたいほど簡単です(=近代日本語は文法が壊れているので信じがたいほど難しい)。
しかーし!このシリーズのすごいところはそれだけではありません。準備偏からすでに物語が始まっているんですね。
テーマは「人生」。主人公のエド青年は心優しいパイ屋さん。大きな街でサラリーマンをしていたのですが、「おいしいパイを焼くパイ屋さんになりたい!」という長年の夢を追って会社を辞め、念願かなって小さな街に自分の店を開いたのでした。まさにDream comes trueなんだけど、なんか違う。客は少なく、やって来るのはいつもデブで凶暴で無愛想な猫。ブルーベリーパイばかり狙って食い荒らし、エドのことなんかてんで気にせず、ついには居座ってしまいます。そんな日常にある日、背の高い灰色のソフト帽をかぶった男が現れて…。
映画『Mr.ビーン、カンヌで大迷惑?!』 <ややネタバレ> [レビュー]
観てきました。映画の日に行ったのに、館内はがらがら。同時間帯に上映されていた『アース』のほうへみなさん行かれていたようで。『アース』も以前に書いた通りの”いい映画”ではあるんですが、けっこう寝てる人も多かったんですよね(笑)。それに比べると、ビーンは客を寝かせない(←当たり前)。
ビーンのジョーク、ギャグ、ユーモア、どたばたはもはや定番。安心して笑ってられます。序盤のフランス語でお世辞を言われる小ネタから、中盤の資金稼ぎの中ネタ、終盤のカンヌ映画祭を皮肉った大ネタなど、「観る人の教養と興味と関心によって笑いの深さや広がりは違うけれど、全体として=大人から子どもまで存分に笑える」という緻密な構成は健在。
三谷幸喜の『THE 有頂天ホテル』の時も思ったのですが、良質なコメディって1回みただけではすべてを”発見”できませんよね。何度も観て仕掛けを見つけるのが楽しみだったりもするわけです。
この映画でいい味だしているのが、写真の真ん中の男の子。1996年生まれのマックス・ボルドリーです。2005年頃から子役業を初め、今回の映画に抜擢。イギリス人ですが、2003年までモスクワとワルシャワに住んでいたことから、英語とロシア語のバイリンガルです。
映画でほぼ同年齢のステパン(←10歳)を演じたわけですが、表情が豊かでうまい。特にほんとに楽しそうに笑うところがすばらしい。小汚いおっさん=Mr.ビーンだけに印象が偏らないための重要なポジションをしっかりこなしています。
もちろん、ステパンは飾りとしてのみ用意されたわけではありません。
ステパンはビーンのせいで父とはぐれてしまいます。仕方なくビーンと行動をともにし、知恵を出し合いながら父を探すわけですが、なんとそのビーンともはぐれてしまいます。そして最終的に、「ピンチを自力で切り抜けて、両手を挙げて最高の笑顔を見せているステパンを、父が(←ここ重要)発見する」というエンディングへとつながっていきます。
そうです。今回の映画では、「父と息子の関係性」、特に「自立」が全編を通じたテーマの一つになっていたのでした。だからステパンは11歳でも9歳でもなく「10歳」なんですね。このテーマ上では、ビーンはステパン親子にとっての”トリックスター”的な存在です。主役はあくまでステパン。父とはぐれてからの成長ぶりを髪型で表現したり、ビーンとはぐれる前の「大道芸」ではビーン主導だったのに再会後はステパンが主導していたりと、10歳の少年が成長していく様子がさりげなく、でもあちこちに盛り込まれています。
映画に盛り込まれているテーマはほかにももっとあるはず。入れ子細工のように、普遍的な笑いの中にいくつもの普遍的なテーマを含ませて、でも説明的なセリフや場面はまったく用意しない。ほんと「知的」ですね。
映画『アース』 [レビュー]
観てきました。渡辺謙がナレーションをしている吹き替え版でした。映像に割り込んでこない抑制のきいた語り口で、心地よい印象でした。満席(in 新宿)でした。
主人公は地球。大自然のサイクルの中で生きていく/死んでいく動植物が脇を固めます。その中から、準主役級でホッキョクグマ、アフリカゾウ、ザトウクジラが選ばれているという構成になっています。
「環境問題を考えさせる映画」のように紹介されていますが、この映画の本質は「大自然の恵みを受け、脅威と闘いながら、たくましく生きていく/はかなく死んでいく動物たちの姿」だと思います。アングロサクソン系の得意技ですね。これまでにテレビで先行して使われた映像が多く(全部そう?)、「あー、これねー」ってシーンがたびたび出てきました。
もちろん、環境保護を訴えるナレーションは要所で登場します。原文がどうなってるかわからないのですが、吹き替え版でのメッセージは「大自然を守れるのは人間だけなのです。まだ間に合います」ってものでした。
難癖つけるようなところではないんですが、西洋の発想=人間が自然を支配するという思想にまだとらわれてるんだなあという印象を受けました。支配が行き過ぎた結果、人間へ不利益が跳ね返ってきた。だから保護へ。”植民地”を”保護領”と言い換えるのと同じ発想です。
東洋なら「人間もまた大自然の中で生かされている(だから自然を尊重するのは当然)」と考えるわけで、私はそっちに共感しています。
なので「人間が自然を守る」なんて言われると、「いやいや、逝きかけてる人が粘らずに逝けばいいんじゃないの?野生動物みたいに」とか、「少子化も大歓迎でしょ」とか、「要は人間の絶対数が減ればいいんじゃないの」とか、そんなことが頭をよぎってしまいます。薄汚れた大人になりました。
それはさておき。
映像はさすがです。映画館の大画面で見る価値があるものばかり。できれば、フィルムではなく、デジタル映像を使っている映画館で見られることをお勧めします。
特に、「群れ」のインパクトは強烈です。ザトウクジラの数頭から、トナカイの300万頭まで、映画では群れの力が繰り返し描かれます。水と光と群れ。この3つが地球で繁栄する秘訣なんですね。
そんな中、たった1頭で、解けかけた氷の海で獲物を探すホッキョクグマの映像は印象に残りました。何度も海に落ちながら、いざって沖へ出る姿。20世紀の終わりに韓国・プサンの国際市場に行ったときのこと。市場のあちこちで、片足や両足が無く、いざってくず野菜やくず魚を拾い集めている人たちを見かけたことがあります。その記憶がホッキョクグマにだぶり、「生きるってそういうことだよな」と「生きるってそういうことなのか?」と、2つの思いが交錯したのでした。
映画『ブロークバック・マウンテン』 <ネタバレ!> [レビュー]
映画は「これはいいね」と思うものだけレビューを書こうと決めてたのですが、ちょっと同性愛系統の話題が出たこともあって、「これは嫌だな」と思う映画をご紹介します。
舞台は、1963年、保守的なアメリカの田舎=ワイオミング州ブロークバック・マウンテン。20歳のイニスとジャックは、夏の放牧シーズンに山で羊番をするバイトにありつきます。夜の寒さがきっかけで愛し合う2人。しかし、イニスは下山後、お膳立てされた通りに結婚し、父親に。ジャックも結婚して家庭を持ちますが、お互いのことが忘れられず再会。以後、20年間に渡ってブロークバック・マウンテンでのデートを重ねますが、最後は…。というお話。
もともと、近くのTSUTAYAでお勧めになっていて、イニス役の俳優(ヒース・レジャー)がオーストラリア出身だったのでがぜん興味がわいて借りてみたのでした。映像も音楽も演技もすばらしく、2006年のアカデミーで、監督賞、脚本賞、主題歌賞を取ったほか、ベネチアで金獅子、ゴールデングローブでも作品賞、監督賞、脚本賞、主題歌賞を取っています。
一見、文句のつけようがない映画なのですが、アカデミーでは作品賞を逃してしまったのです。アカデミーが保守的=同性愛を嫌ったからだという見方に加え、この映画自体に根深いホモフォビア(=同性愛への激しい恐怖・憎悪)思想が含まれていることが、判断に微妙な影響を与えたのではないかと思います。
キリスト教的価値観をベースにしているハリウッドは、言わずと知れた”異性愛至上主義”の殿堂です。そこで量産される男女の恋愛が「真理」として世界中に流通しています。その立場から言えば、同性愛は「真理」を脅かすものとして常に否定され、負の感情を持たれなければならない。それがハリウッドの”文法”です。
その結果、映画で描かれる同性愛者は必ず、
・悲劇的な結末を迎える(多くの場合は死ぬ)
・実は異性愛者(ぎりぎりでも両性愛者)だったというオチになる
・一貫して道化役(または端役)とされ、ストーリー進行に影響しない
などの「パターン」にあてはめられます。間違っても、「普通に恋愛して普通に幸せ」なんて結末にはなりません。
『ブロークバック・マウンテン』もハリウッド映画である以上、その文法を踏まえなければ商業ベースに乗りません。というわけで、”ひと夏の恋”の後の主人公2人には、いずれも過酷な人生が用意されています。
<イニスの悲劇>
・久々に再会したジャックと抱き合いキスしているところを妻に目撃される(イニスは気づいていない)。
・妻は勤め先の上司と不倫。夫婦仲は一気に冷め、離婚。
・妻はその上司と再婚。クリスマスにイニスは、妊娠中の元妻、元妻の再婚相手、自分の娘2人の”幸せな”食卓に客として招かれる。
・そのクリスマスの日、元妻と2人の場面で、ジャックとのキスを見ていたことを告げられ、なじられる。
・ジャックとのデートで休暇を取るため、仕事を何度もクビになる。
・「お互いに離婚して、一緒に牧場を持とう」というジャックの申し出を拒否。背景には、幼い頃、リンチして殺されたまま放置されているゲイの死体を、父親に「教育のため」に見せられ、トラウマになっていることがある(この場面、リンチの首謀者は恐らく父親だと思わせる描き方)。
・年齢的に今の仕事をクビになるとやばいという理由で、次のデートのキャンセルを告げ、ジャックを絶望させてしまう。
・思い直してデートしようと決めるが、ジャックは音信不通。ジャックの妻に電話し、ジャックが死んだことを告げられる。
・貧しく孤独な老後を送る。
<ジャックの悲劇>
・資産家の娘と結婚するが、婿養子的な立場=”種馬”扱いで妻の父親と対立。
・妻は父の経営する会社の仕事に没頭。夫婦仲は完全に冷め、家庭での居場所を無くす。
・イニスとの関係に人生(と性生活)の意義を見出し、一緒に牧場を持つことを提案するが拒否される。
・さらに、デートの回数を減らすことまで逆提案されて絶望(ジャックは”やられる”側だから)。
・イニスとケンカ別れしたまま、ある時、集団リンチにあって殺される(しかし、イニスにはジャックの妻から「事故でタイヤが顔面に当たって死んだ」と伝えられる)。
見せしめのような”わかりやすい”不幸の数々。つまりこれは、「同性愛者の恋愛は成就しない」ことだけでなく、「同性愛者は等しく不幸な人生を歩み、悲劇的な結末を迎える」というメッセージを発していることにほかなりません。なんでこんなことになるのか?ハリウッドだから、です。
アメリカの学校でこの映画を教材として生徒に見せたところ、一部の生徒は激しいショックを示し、地域の保守層からは猛反発を食らう、という出来事が報じられたことがあります。保守層の反発はともかく、生徒のショックの原因は同性愛の描写ではないでしょう(←12歳未満は保護者同伴、の指定しかついていないソフトなものなので)。おそらく原因は、徹底した”不幸・悲劇”の描かれ方にあったのではないかと思います。
特に、自分の「性」について悩んでいる思春期の少年少女がこの映画を観ると、ひたすら人生を悲観してしまうと思います。下手をすれば自殺を考えかねません。それほどに、この映画が発するネガティブなメッセージは強烈です(イニスには「長女の結婚」も用意されていますが、それが救いになっているとは到底、思えません)。
アメリカは自由な国だと思われがちですが、同性愛に関しては、おそらく日本の何倍も不寛容な社会です。つい先日も、”同性愛者の結婚”に断固反対していた保守系の大物上院議員(初老男性)が、空港の男性用トイレで”相手”を探していて逮捕されたという事件があり、大きく報じられました。そういう社会ですから、この映画の中の2人が徹底して不幸な目に遭っていてもなお、「同性愛がテーマ」というだけで上映反対運動が起きたりするわけです。
フォビア(phobia)は差別の入り口です。日本ではこの映画を単に”悲恋モノ”扱い、”泣ける映画”扱いにしているように見受けられますが、思春期の少年少女に見せる時には充分な配慮が必要だと思います。
(おまけ)
イニス役のヒース・レジャーは、この映画がきっかけで、映画の中の妻役(ミシェル・ウィリアムズ)と結婚しました。離婚の演技をしながら愛を育んでいた2人。俳優って不思議な商売ですねー。
映画『ディセンバー・ボーイズ』 <ややネタバレ> [レビュー]
12月1日に全国ロードショーが始まったと思ったら、もう終わりだと聞いて、慌てて観にいきました。公式サイトはこちら。すごく良かったけどなあ。やっぱり次にくる『アイ・アム・レジェンド』には勝てないのかなあ。
この映画の話題といえば、ハリー・ポッターのダニエル・ラドクリフが主役の1人で出ていること。ハリポタ以外では初主演です。でも、私はハリポタを観たことがないので、先入観なく楽しめました。演技うまいなあとか、歩き方が猿人みたいだなあとか(←演出ではなく、ほんとに歩く時の姿勢が悪いんだと思います)。
オーストラリアのアウトバック(=内陸部)にある孤児院で生活している4人の少年(上の画像)は、4人とも誕生月が12月なので、「ディセンバー・ボーイズ」と呼ばれています。養子にもらわれていく仲間をうらめしそうに見送りつつも、けっこう楽しくやってます。誕生日、神父さんの部屋に呼ばれた4人は、海辺にある支援者の家でひと夏過ごせることになったと告げられ大喜び。そこで出会った人々との交流を経て大人の階段を上っていくというお話。
1963年に書かれた同名の小説が原作。興味深いのは原作→映画の改変ポイントです。
原作 映画
設定 1930年代(第2次大戦前) 1960年代
舞台 オーストラリアの東海岸 南オーストラリア(アデレードとカンガルー島)
主役 5人。10歳前後 10歳前後の3人と15,6歳のマップス(ラドクリフの役)
その他 主人公たちはタバコを吸わない 隠れてタバコを吸っている
支援者の奥さんは元気 支援者の奥さんは病気
ルーシーは出てこない ルーシーが”トリックスター”として登場
(↑金髪の少女)
なるほどねー。舞台以外の主な改変は全部、『スタンド・バイ・ミー』の”本歌取り”を意図したわけですね。ナレーション役は真面目な少年(この映画ではミスティ)で、彼の回想という設定。ほかの3人より少し早く大人になった少年が登場する(この映画ではマップス)のも同じです。それをズボンの丈で表現しているあたりが面白い。
私にとって『スタンド・バイ・ミー』は、今まで観た映画の中でベストの一つなので、『ディセンバー・ボーイズ』をすごくいいと思ったのも当然でした。そういう目で観ると、『スタンド・バイ・ミー』のアイデアがあちこちに使われていて(支援者の奥さんとの絡みなど)、改めてなるほどねーと思います(逆に言えば、これを”パクリ”だと感じてしまう人には楽しめない映画かもしれません)。
もう一つ、この映画がいいなと思ったのは、ロケ地がカンガルー島(とアデレード)だったから。
奇妙な岩が並ぶ「リマーカブル・ロックス」↓マップスが足しげく通った岩はたぶん上側
なぜかそこだけ真っ白な砂丘が広がっている「リトル・サハラ」↓自力で登ってソリかサンドボードで滑る。滑ってるのはラドクリフたちです(笑)
映画には登場しなかったけど、まったく観光化されていない自然のままのビーチ↓
旅行した時は(リマーカブル・ロックス以外は)ぜんぜんつまんねえ島だなあと思ったのに、こうやって映画で観ると懐かしくて、見入ってしまいました。つまんなかったのは参加した英語ツアーのガイドのせいだった、ということにしておきます(笑)。また行きたい!
(おまけ)
映画の中で、「ダーウィン」というオーストラリア北部の街の名前が何度か登場します。映画の舞台と正反対の位置にある”遠い場所”ぐらいのニュアンスで登場しているのですが、ダーウィンは第2次大戦中、”敵国”日本から空襲をくらった唯一の街です。原作の設定が第2次大戦前の1930年代だということを考えれば、原作では「ダーウィン」にもっと意味を持たせているのかも。いずれ原作も読んでみたいと思います。
映画『リトル・レッド』 [レビュー]
パンク侍、斬られて候 [レビュー]
日テレドラマ「私は貝になりたい」 [レビュー]
出演者の熱演でドラマとしては引き込まれた。
飯島直子の演技だけが平成って感じで、一人で子ども産んで海に入って死のうとしているのに、ふくよかな顔でメイクもバッチリってのはいけてないと思ったが。戦争モノやるときは女優さんはノーメイクで出るぐらいの意気込みを見せて欲しい。でもほかの人の演技はよかった。
印象的だったのは中村雅俊が演じた死刑囚が残した最期の一言
「二度とだまされて戦争へ行くんじゃないぞ!」
カネもコネも地位も名誉も無いただの庶民が、戦争では真っ先に死んでいく。軍隊では前線に送られ、非戦闘員であっても満足な食料や医療が得られず。一方で、旧日本軍の参謀だった人物の中には、大学長になったり企業の顧問をしたりで、カネも地位も名誉も保ったまま生き延びた、あるいは今も生き延びている人たちがいる。
この不条理はいつの時代のどの国のどんな戦争でも同じだ。だから、何も持たない庶民が戦争の犠牲にならないようにするには、権力にだまされないように目を光らせるしかない。権力者は戦争を「周辺事態」「集団自衛」「国際貢献」「駆けつけ警護」などいろいろに言い換え、めくらましを仕掛けてくる。だまされて戦争に巻き込まれたと気づいた時には遅いのだ。
それはさておき。今回の日テレドラマは、TBSの「私は貝になりたい」とは違い、加藤哲太郎の著書をもとにした自伝的ドラマだという点が売りだった。しかし、この「自伝的」というのがクセモノで、どこまでが歴史的事実で、どこからがドラマ的脚色なのかをあいまいにしたまま「事実っぽく」見せていたことに違和感が残った。
例えば、加藤は本当に捕虜殺害をしなかったのだろうか?劇中では、元部下が加藤の無罪を証言している。また、真犯人は別の部下の野村義直だということを明示している。加藤は野村と米軍管理下の精神病院で出会う。「野村は捕虜を殺害したことを言い出せず、そのことで自分を責め続けて発狂した」ということを向かい側の精神病患者から聞かされるのである。
この展開、脚色だったとしても嫌な感じだし、加藤がそう語っているのだとすれば「死人(この場合は野村)に口なし」だもんなあ。日テレがドラマの前に流した宣伝番組でも、加藤は収容所の待遇改善を進めた人道的な所長で、部下の犯罪をかばって逃亡生活を送ったとされていた。ちなみに、ウィキペディアには「捕虜を銃剣で処刑した」となっている。どっちが本当なんだろう?図書館に行って資料を探してみよう。
もう一つ、加藤の妹がマッカーサーに直談判をして、異例の再審が通ったという展開になっている。これは事実なんだろうか。だとすれば、加藤の父が作家・評論家として著名な人だったからという特殊事情抜きでは語れない。ドラマでは「父はだめもとであちこちに手紙を書き送った」という様子が一瞬だけ流されているが、その先は(またしても)ウィキによると、社会党の大物で首相も務め、弁護士資格も持っている片山哲をはじめ各界のお歴々なのである。なーんだ、やっぱカネとコネじゃないか。と、正直、白けてしまった。
捕虜殺害が加藤のまったくあずかり知らぬところで行われた部下の暴走なのであれば、加藤が問われるのは管理責任だけのはず。加藤の前後の所長は死刑を免れ、最高責任者の管理部長は禁固8年だったのだという。なのに加藤の再審の結果は終身刑だった(のち30年に減刑、結果的に10年で出所)。これは捕虜殺害の疑惑がぬぐいきれなかったということなのでは。この辺は裁判資料や再審資料を見てみないとなんともいえないと思うのだが、日テレは…見てるわけないよなあ。
見ている間と見終わったあとでの温度差が激しいドラマでした。
(追記)
番組HPの掲示板でこんな書き込みを見つけました。
甥さん 40歳~49歳 男 投稿日:2007/08/24 17:22:50
家族として、初めて事実に基づいた製作に期待します。
但し、家族も重要な題材でありながら、男兄弟が省かれているのが残念です。
つまりこのドラマは、加藤家からみた真実、ということでしょうか?
新マチベンVS必殺仕事人2007 [レビュー]
NHK「新マチベン」第2回も面白かった。筋書き自体もなかなかよかった。第1回で、痴漢事件の裁判が始まったんだけど、法廷で原告が「痴漢はうそ」と発言。会社の不祥事の責任をなすりつけられてクビにされた夫と、そのことでいじめられて自殺した娘の無念を訴えるために偽装したという。そのせいで会社側に損害賠償で反訴されてしまう。事態打開のために原告側は夫の証人喚問を要請するんだけど夫はすっぽかして…。という展開。結局は、夫が証言台に立ち、会社の不祥事は夫と被告の共謀でミスを隠蔽したことが原因で、妻にはそのことを隠していたと明らかにする。
いやー、迫力があった。演技力がある人を集めて作ると、こうしたアップダウンの少ないネタがすごく見ごたえのあるものになるもんなんだなあ。3人の60代弁護士のバランスも絶妙。来週は新しい事件を引き受ける。そのうち弁護士たちの過去も明らかになっていくはず。全部で6回らしいので、緊迫した展開が続くんだろうな。来週も見よ。
テレ朝系「必殺仕事人2007」は途中から見たんだけど、コントかと思った。ジャニーズを出せばいいってもんじゃないだろう。俳優陣の演技力がまずいわけではなかった。伊賀忍者役の水川あさみと、東山紀之の妻役の女優(名前知らない)はひどかったけど、ほかはまあまあだったんだよね。なのにコントに見えてしまうのは、演出と脚本の問題だと思う。若年層を意識したのか全体的に軽い作りで、仕事人=裏稼業の持つ陰りや苦悩がぜんぜん描かれてなくて、渋くもなんともないのだ。松岡昌宏演じる絵描きが悪役のデコに筆で何か書いたとたん、悪役の顔が光って死んでしまった演出には大笑いしてしまった。
同じテレ朝系のベタな復活モノだったら、「菊次郎とさき」のほうがよほどましだった。長期にわたって番組宣伝してたけど、その中で過去の「仕事人」の再放送をずっとやってた。そのせいで目が肥えてしまたのである。戦略がぬるいぞテレ朝。
NHK「新マチベン」第1回 [レビュー]
いやー、面白かった。60歳前後の新人弁護士3人が事務所を立ち上げていきなり、痴漢に遭ったと主張する依頼人をゲット。1円訴訟なんておかしな裁判を引き受けてしまって、いざ法廷へ。ところが、被告側の弁護士に追及された依頼人がいきなり「痴漢には遭っていません」なんて証言をしてしまって…つづく!
ドラマティック=ありえない設定にリアリズムを持たせてるのが、出演者たちの演技力。3人の弁護士はそれぞれ、渡哲也、石坂浩二、地井武男。変な依頼人は黒木瞳。その元夫が小日向文世。引っ掛けられた”痴漢容疑者”が鶴見辰吾。バー店役の坂下千里子(←ずっとにやけてて不快)以外は演技派がそろって見ごたえがある。カメラワークもオーソドックスで安心して見られる。CMが無いのもいいね。
司法モノでは、2003年フジテレビ系列の『ビギナー』が面白くて、連ドラ嫌いの私にしては珍しくほぼ毎週見ていた。それ以来の期待が持てる連ドラだ。NHKのホームページで紹介されている次回予告は”ネタバレ”なので、それを読まずに見ることをお勧めします。