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映画『ブロークバック・マウンテン』 <ネタバレ!> [レビュー]

映画は「これはいいね」と思うものだけレビューを書こうと決めてたのですが、ちょっと同性愛系統の話題が出たこともあって、「これは嫌だな」と思う映画をご紹介します。

ブロークバック・マウンテン (集英社文庫(海外))

 ブロークバック・マウンテンの公式サイトはこちら。

 舞台は、1963年、保守的なアメリカの田舎=ワイオミング州ブロークバック・マウンテン。20歳のイニスとジャックは、夏の放牧シーズンに山で羊番をするバイトにありつきます。夜の寒さがきっかけで愛し合う2人。しかし、イニスは下山後、お膳立てされた通りに結婚し、父親に。ジャックも結婚して家庭を持ちますが、お互いのことが忘れられず再会。以後、20年間に渡ってブロークバック・マウンテンでのデートを重ねますが、最後は…。というお話。

もともと、近くのTSUTAYAでお勧めになっていて、イニス役の俳優(ヒース・レジャー)がオーストラリア出身だったのでがぜん興味がわいて借りてみたのでした。映像も音楽も演技もすばらしく、2006年のアカデミーで、監督賞、脚本賞、主題歌賞を取ったほか、ベネチアで金獅子、ゴールデングローブでも作品賞、監督賞、脚本賞、主題歌賞を取っています。

一見、文句のつけようがない映画なのですが、アカデミーでは作品賞を逃してしまったのです。アカデミーが保守的=同性愛を嫌ったからだという見方に加え、この映画自体に根深いホモフォビア(=同性愛への激しい恐怖・憎悪)思想が含まれていることが、判断に微妙な影響を与えたのではないかと思います。

キリスト教的価値観をベースにしているハリウッドは、言わずと知れた”異性愛至上主義”の殿堂です。そこで量産される男女の恋愛が「真理」として世界中に流通しています。その立場から言えば、同性愛は「真理」を脅かすものとして常に否定され、負の感情を持たれなければならない。それがハリウッドの”文法”です。

その結果、映画で描かれる同性愛者は必ず、
・悲劇的な結末を迎える(多くの場合は死ぬ)
・実は異性愛者(ぎりぎりでも両性愛者)だったというオチになる
・一貫して道化役(または端役)とされ、ストーリー進行に影響しない

などの「パターン」にあてはめられます。間違っても、「普通に恋愛して普通に幸せ」なんて結末にはなりません。

『ブロークバック・マウンテン』もハリウッド映画である以上、その文法を踏まえなければ商業ベースに乗りません。というわけで、”ひと夏の恋”の後の主人公2人には、いずれも過酷な人生が用意されています。

<イニスの悲劇>
・久々に再会したジャックと抱き合いキスしているところを妻に目撃される(イニスは気づいていない)。
・妻は勤め先の上司と不倫。夫婦仲は一気に冷め、離婚。
・妻はその上司と再婚。クリスマスにイニスは、妊娠中の元妻、元妻の再婚相手、自分の娘2人の”幸せな”食卓に客として招かれる。
・そのクリスマスの日、元妻と2人の場面で、ジャックとのキスを見ていたことを告げられ、なじられる。

・ジャックとのデートで休暇を取るため、仕事を何度もクビになる。
・「お互いに離婚して、一緒に牧場を持とう」というジャックの申し出を拒否。背景には、幼い頃、リンチして殺されたまま放置されているゲイの死体を、父親に「教育のため」に見せられ、トラウマになっていることがある(この場面、リンチの首謀者は恐らく父親だと思わせる描き方)。
・年齢的に今の仕事をクビになるとやばいという理由で、次のデートのキャンセルを告げ、ジャックを絶望させてしまう。
・思い直してデートしようと決めるが、ジャックは音信不通。ジャックの妻に電話し、ジャックが死んだことを告げられる。
貧しく孤独な老後を送る。

<ジャックの悲劇>
・資産家の娘と結婚するが、婿養子的な立場=”種馬”扱いで妻の父親と対立。
・妻は父の経営する会社の仕事に没頭。夫婦仲は完全に冷め、家庭での居場所を無くす。
・イニスとの関係に人生(と性生活)の意義を見出し、一緒に牧場を持つことを提案するが拒否される。
・さらに、デートの回数を減らすことまで逆提案されて絶望(ジャックは”やられる”側だから)。
・イニスとケンカ別れしたまま、ある時、集団リンチにあって殺される(しかし、イニスにはジャックの妻から「事故でタイヤが顔面に当たって死んだ」と伝えられる)。

見せしめのような”わかりやすい”不幸の数々。つまりこれは、「同性愛者の恋愛は成就しない」ことだけでなく、「同性愛者は等しく不幸な人生を歩み、悲劇的な結末を迎える」というメッセージを発していることにほかなりません。なんでこんなことになるのか?ハリウッドだから、です。

アメリカの学校でこの映画を教材として生徒に見せたところ、一部の生徒は激しいショックを示し、地域の保守層からは猛反発を食らう、という出来事が報じられたことがあります。保守層の反発はともかく、生徒のショックの原因は同性愛の描写ではないでしょう(←12歳未満は保護者同伴、の指定しかついていないソフトなものなので)。おそらく原因は、徹底した”不幸・悲劇”の描かれ方にあったのではないかと思います。

特に、自分の「性」について悩んでいる思春期の少年少女がこの映画を観ると、ひたすら人生を悲観してしまうと思います。下手をすれば自殺を考えかねません。それほどに、この映画が発するネガティブなメッセージは強烈です(イニスには「長女の結婚」も用意されていますが、それが救いになっているとは到底、思えません)。

アメリカは自由な国だと思われがちですが、同性愛に関しては、おそらく日本の何倍も不寛容な社会です。つい先日も、”同性愛者の結婚”に断固反対していた保守系の大物上院議員(初老男性)が、空港の男性用トイレで”相手”を探していて逮捕されたという事件があり、大きく報じられました。そういう社会ですから、この映画の中の2人が徹底して不幸な目に遭っていてもなお、「同性愛がテーマ」というだけで上映反対運動が起きたりするわけです。

フォビア(phobia)は差別の入り口です。日本ではこの映画を単に”悲恋モノ”扱い、”泣ける映画”扱いにしているように見受けられますが、思春期の少年少女に見せる時には充分な配慮が必要だと思います。

(おまけ)
イニス役のヒース・レジャーは、この映画がきっかけで、映画の中の妻役(ミシェル・ウィリアムズ)と結婚しました。離婚の演技をしながら愛を育んでいた2人。俳優って不思議な商売ですねー。


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ゆりこ

嫌〜な映画ですよね。お金と技が潤沢(技が潤沢というのは変かもですが)だけに…。
ホモフォビアの軸からの分析はまったく同感ですが、女性(性)蔑視の軸も重要だと思います。イニスがいちおう生き延びて、ささやかな幸福感ながら娘が訪ねて来てくれる、という結末に対して、ジャックが無惨い殺される、という設定は、ジャックが性行為において「受け(ネコ)」、つまり「女役」だという設定に呼応しています。(ちなみに雑学情報ですが、「受け」っていうのはもともとヤオイ用語の「攻め」に対した言葉なんですが、ここ数年でゲイ当事者も使うようになってきました)
「同性愛であること」よりも「女のようにやられること」がより嫌悪され忌避される、という図式なわけで、「オカマ差別」の根底には「女性差別」があるといわれるゆえんです。

それと……この二人、たしかに同性愛者として苦労もしてますが、それにしても妻に対してひどすぎます。同じく同性愛者であっても、女性である限り、私は妻達が気の毒でなりませんでした。が、この設定も、ビミョウなところで、「女に興味がないはずのゲイ男性が、自分にちやほやしてくれる」というオコゲ的なファンタジーがある女性にとっては、「おいしい」ものとして機能しているふしもあり…。

最後に、これ、驚きなんですけど、ゲイでこの映画「好き」っていう人が私のまわりにはけっこういるんですよ! 「うそー、なんでー」って何人か問いつめたのですが、そうすると、
*初回セックスがいきなりそーにゅーなんて、ありえねー。ボーイズラブかよ!
*女役のほうが惨殺されるなんてひどい。
*最初の山では、暴力的なセックスばかりで、二人が恋人らしくこころを通わせるようになったら身体接触描写がどんどん減っていくのが気にくわない
などなどについては、認識して、怒っていたりもするんですが、
「あの壮大で美しい山の前で、見かけ男らしい男二人のカップルを見るだけでもう感動」だったり、「山を下りた直後のイニスの、壁をガンガンぶったたいて号泣するシーンにもろ感情移入して、その後のいやな展開とか矛盾とか全部無視できちゃって、男同士の恋愛の困難なひだひだをピックアップしては感動」というようなことを言ってましたです。妻への仕打ちはもちろん、かるーくスルー(爆)。あの場面のヒース・レジャーの演技はたしかにすごくて、ハリウッドスターを輩出するオーストラリア演技学校出身者のなかでも近年のぴかいち、とか思いますが、それと、壮大な山と羊とでゲイ当事者の多くも「泣ける悲恋の物語」にしたてあげちゃっているアン・リー監督の技と予算が憎いです。
リー監督、「ウエディング・バンケット」ではゲイと女性と中国人家族をからめて素晴らしく複雑かつ配慮ある表現をしていたけど、やっぱ予算規模なのかなあ。でも同時に、仮にも見かけが男らしい男であるカウボーイが同性愛カップルになる、という物語をハリウッドで撮れたのは、監督が「アジア人」だから、でしょうし(言い訳がたちやすそう)。
ハリウッドで、ゲイを主人公とした有名作品としては90年代前半だったかの「フィラデルフィア」がありますが、トム・ハンクス演じるゲイの弁護士は「ちゃんと」エイズで死にますし、恋人の男性との身体接触は社交ダンスシーンのみで、夜、自宅でくつろいでいる時はかならずひとりぼっちだったりと、映像的には徹底的に同性愛行動を出さず、言葉でのみゲイだゲイだと言うという「戦術」でした。「メゾン・ド・ヒミコ」のゲイ・キャラ、オダギリジョーにも採用されていた戦術ですが。オダジョーの場合は、なぜか女とセックスしたくなる、という意味不明な行動までとって、監修役だったゲイが途中降板したほどでしたが、監督は「僕とあやちゃん(ムーミン谷のような世界が描きたかったのでゲイの老人ホームにした、とのたまった女性脚本家)にはありえたんです」と開き直り。
って、話が展開しまくっちゃいました。
by ゆりこ (2007-12-18 14:05) 

rio

>ゆりこさん、なにから語ればいいのやら(笑)

まず、「いきなり挿入」や「身体接触描写が減っていく」ことは、映画の瑕疵ではないと思います。男女の恋愛モノでもそういうケースはありますし、すべてをリアルに描けば映画になるというわけでもないので。。。

ピーコや西原理恵子がよく言ってますけど、ゲイは(レズはよく知らないのですが)「身体接触」に重きを置きすぎなのではないかと。それがゲイへの差別・偏見を助長している側面もあると思うんです。『ブロークバック・マウンテン』でも、2人の接触シーンは観客に衝撃を与える効果を狙っているわけで、そういう描き方自体が偏見そのものですよね。

再会できることになってそわそわしっぱなしのイニス、2人で釣りをしながら幸せそうな顔してるジャック、なぜか冗談から本気の殴りあいになってしまう2人、といったような優れた心理描写を際立たせるには、むしろ身体接触をもっと抑えるべきだったと感じました。

妻への仕打ちに関しては確かにひどいと思いますが、こっちはむしろリアルだと思います。現実にも、「家」や「世間体」のために結婚して家庭を持っている同性愛者(←本人の自覚あるなしに関わらず)は少なからずいるでしょう。個人というより社会が抱えている問題ですよね。

ただ、映画の中でそうした状況に置かれた妻2人が、苦悩しながらも最終的には夫を捨て、自分の手で人生を切り開く姿、そして一定の成功をおさめている姿を描いている点は評価できると思います。

もちろん、夫と捨てた妻たちの「成功」(←イニスの妻は家庭人として、ジャックの妻はビジネスパーソンとして)は、同性愛者の夫たちが転落していく姿と呼応している(=アンチテーゼ)わけですが。

『ウェディング・バンケット』は見てないのですが、あれはたしか台湾映画ですよね。『メゾン・ド・ヒミコ』はDVDで見たんですが、くだらなすぎて途中で寝そうになりました(笑)。突っ込みどころ満載で、演技派オダジョーも台無し。あんなのぽっと出のアイドルにさせときゃいいのに、っていうような役でしたねえ。
by rio (2007-12-18 15:40) 

ゆりこ

たびたびおジャマします(笑)。
もちろん、リアルに描けばいいというものではないですが(そもそもリアルな描写というのがひとつのフィクションですが)、挿入=セックス、という異性愛規範の思いこみ(ゲイでする人がたくさんいるとしてもそれとは関係なく)を性描写の最初で中心としてもってくること、しかも身体的に考えて不可能もしくはケガになる行為を、ケガさせるための暴力としてじゃなく平気でもってくること、これは、ゲイ当事者の多くに「あ、ターゲットが違うのね」という感想を抱かせる、というようなことなのですが。ボーイズラブの定番と全く同じですが、無意識にやっているわけじゃなくて、「衝撃を与える」と同時に、「ゲイ映画っぽくしないため」の演出判断、という説(?)に一票です。もちろんさまざまな解釈があると思いますが。

それと、全体的にはゲイはたしかに性的に活発な人が多いように見受けられますが、ヘテロセクシャル男性であれば風俗に行ったり、AVでソロ(笑)なところも、ゲイ同士でハッテンバなどで安く、ソロでなく対人で楽しんでいるとしたら、それでもそんなに活発度が違うかしらん?とも思います。(詳しくリサーチする気はないですけど)
頻度という意味じゃなくて、「どんなにいい人でも胸毛があるから(ないから)ダメ」みたいな強いこだわりがある人が多いのは、ナルシシズムとつながっているから? でもそれも、年齢を重ねて自分自身の市場価値が下がってくると「どんな人でも」になっていくようですが。

ピーコは、自分は女性が好きな男性しか好きになれない、だから、性行為は経験してないけれどそういう自分だからわかることがある、みたいなことをテレビでは言いませんが本ではよく書かれていますよね。(もしかしておすぎのほうだったらすみません。どっちにしても、究極のプラトニックラブライフ…)

*オダジョーの演技
あの映画のすべての矛盾が集中した役柄なので、さぞや大変だっただろうと推測しますが、「常に目をうるうるさせている」「常に何も考えていなくてその場に心理的に入り込んでいないような中途半端な姿勢でいる」という、かなり微妙な演技を好演していた、と思います。
人間として演じてしまうと破綻するから、見る人が勝手に投影できるような空っぽの器を演じよう、ただし目はうるうるで、というプランだったのでは。「真っ白の上下の衣装が出てきた時点でそれにあわせた」というようなことを言っていましたし。さすがに「破綻している人物像だから」とは言えないので「ごくふつうの青年として」とか言ってましたが。
by ゆりこ (2007-12-18 17:01) 

rio

>ゆりこさん、「ターゲット」は当然、当事者でないでしょうね。「ゲイは不幸になるよ」っていう映画ですから。

「ヘテロの男は風俗に行く」というのもバイアスの一つでは。習慣的に風俗に行く男性は少数だと思いますし、風俗には足を踏み入れたことがないという男性も少なくないはずです。

ピーコや西原が言いたいのは、ゲイが相手を、「恋愛対象」ではなく「セックス対象」としてしか見ていないように(世間に)受け止められてしまうことについて、当事者の側にも問題があるのではないか、ということだと思います。私も同感です。
by rio (2007-12-18 17:44) 

ゆりこ

たびたびたびたびおジャマします。
「ヘテロの男の全員が風俗に行く」というのだと「ウソ」ですが、ソープなどからピンサロなどまであわせると、全国に性風俗業従事者(パートタイム含む)が50万人くらいいるのでは、という規模で異性愛男性向け風俗業界が成立しているわけなので、「ヘテロセクシャルの男性のかなりの数が風俗を利用している」と述べることは「バイアス」とは言えないと思います。
もちろん、そうであっても、「全然行かない人もいる」のは当然だし、行かない人側からすると「自分のことを無視される」のは数に関係なくつねに不愉快なのは、私もマイノリティとしてすごくわかりますが。

ピーコやサイバラ(愛をこめて敬称略)の発言についてですが……今、40才くらいの世代から、結婚していなくても一般企業で勤めていられる(ただし、昇進はできない場合が多い)ようになって偽装結婚のたぐいも減っていて、「ふつうの勤め人」でゲイ・アイデンティティをもって、継続的なパートナーシップを築く人が増えていると感じますが、そういう人たちは表で発言しないですしね。ゲイ雑誌も、表紙やグラビアはエロでも、中にはマジメな記事もありますが、「世間」の人は中身をじっくり読んだりしないですもんね。それこそ広辞苑のエントリーを変えさせたり東京都のゲイ差別を訴訟して買ったりといった当事者まわりでは超有名な出来事も、「世間」にはそれほど知られているとはいえないので、マスコミを使った広報活動がもっと必要ではあると思います。
あ、また長くなってしまった…すいません
by ゆりこ (2007-12-18 18:27) 

koji

今オネーマンズを見ながら書いてます。
考えてみたら日本ほどゲイに関して寛容な国は無いような気がします。アメリカでは考えられないような番組です。
先日もイッコーさんと小沢一郎が「どんだけぇー」と一緒に人差し指を振ってました。アメリカだったら次の選挙は落選確実ですね。
by koji (2007-12-18 19:41) 

rio

>ゆりこさん、18歳以上の男性人口は5000万人超あるわけで、「かなりの数」ってどれぐらいでしょう?

例えば、10%でも500万人なので「かなりの数」と表現できますが、10%は明確に「少数」ですよね。「バイアス=偏り」だとコメントしたのはそういうわけです。「『自分のことを無視される』のは数に関係なくつねに不愉快」という理由でコメントしたわけではありませんので、あしからず。

ちなみに、警察庁に届け出ている風俗産業(パチンコなども含む)のうち、いわゆるソープやヘルスなどの風俗店(無店舗営業も含む。同性愛者向けも含む)は3万店弱です。人口に膾炙してるとは言えないと思います。

マスコミを使った活動はさらの必要だというご意見には賛成です。私がマスコミ企業内にいた頃、マイノリティに関する記事をたびたび出しましたが、性的マイノリティに関する記事だけははねられるか、扱いを小さくされるということが何度もありました。差別感というよりも、在日や部落のケースに比べて、重要ではないと思われている印象を受けました。
by rio (2007-12-18 20:44) 

rio

>kojiさん、日本は歴史的に「男色」に寛容な文化ですからねー。

過去記事で「第3の性」ってなことを書きましたが、20世紀が”異性愛賛美”の時代だったとすると、21世紀は江戸時代までの日本のような”なんでもあり”になっていくのでは、と思っています。

ただ、テレビ的に存在を「許されている」のは、いまだに”オネエマンズ”や”中村中”的な存在だけで、『ブロークバック・マウンテン』に出てくるような、見た目も話し方も行動もぜんぶ「男(または女)」で「同性が好き」ってな存在は、テレビの上では『いない」ことになってますよね。
by rio (2007-12-18 20:50) 

ゆりこ

「10%でも少数派だからそれを一般論として語るのはバイアス」…なるほど。
と思うと同時に、「そちらの10%でもこちらから見れば超多数」という現実を、あらかじめふくめて発言してしまったことが通じる場ではない、ということも認識しました。
考えてみれば当たり前ですが、ちょっと舞い上がっていたかもしれません。申し訳ない。

ひとんちで舞い上がるのもいいかげんにせい、ということで、ともかくも、もろもろ対応してくださりありがとうございました。

「男色」「女色」どちらも主語としての女性がいない、ってことに衝撃を受けたために、どうにも「男色に寛容」という字面を見ただけで叫びそうになるんですが...another can of wormsを開けるのはさすがに自粛いたします。
とかいってて、またそのうち、どうしても〜となって出てくるかもしれません。てへ。
by ゆりこ (2007-12-18 22:52) 

rio

>ゆりこさん、「『そちらの10%でもこちらから見れば超多数』という現実」というレトリックはいかがなものかと。割合と絶対数を混同して発言されるのは、混乱を招くだけではないでしょうか。「場」の問題ではないと思います。

「そちら」「こちら」というわけ方も賛同しかねるところがあります。「性」には生物学的性、ジェンダー、性的指向などさまざまな切り口があることはもちろんご存知だと思いますが、それがすべて同方向にそろう、いわゆる「超男」「超女」の割合はごくわずかだと言われています。

生物学的性は見た目ではっきりしますが、すべてをひっくるめた「性」の本質はグラデーションにあるわけですよね。こうした事実に対して、マイノリティの側から「そちら」「こちら」と囲い込みをやることには違和感を感じます。が、この件に関しては見解の相違ということでしょうね。

最後に、「男色」に限定してコメントしたのは、最初のコメントにも書いた通り、レズに関してはよく知らないからです。付け加えれば、女性の性行動(やその歴史)に関してもよく知りません。知らないことについては語ることができないので、限定したわけです。他意はありません。

このブログはごくたまーにあらわれる変な書き込み以外は何でもありです。特に、こうした議論は大歓迎で、楽しみにしています。またいろいろと書き込んでくださいね。
by rio (2007-12-18 23:34) 

のぶりん

はじめまして、mizumizuさんのサイトからたどり着きました。


口にしたことも殆どなく、ネットでも殆どないことなので、
申し上げるのが憚られますが、後述する事柄の為に
敢えて言いますと、私のセクシャリティはゲイです。


『ブロークバック・マウンテン』について非常に芯の通った
ご意見をなさっていたので私もコメントさせていただきます。


私自身は、この映画で多くのことを考えさせられました。
そして、その結果
「自分が同性を好きになった事に、戸惑いながらも
その気持ちを確かめながら、結果的に素直に生きてよかった」
という認識と、
(既に15年も事実婚状態、この間、誰とも
浮気をしていません)


「現代は、そしてとりわけ日本は、ゲイに寛大になったとはいえ、
これからも社会から阻害される機会の方が多いし、
おおっぴらにカミングアウトして、身内を傷つけてしまうかも
しれない。だから、これからも公言しないでおこう。
だけど、いつか誰かに知られてしまうかもしれない。だから、
それでもなお、リカバーできるだけの人格と社会的実績を
可能な範囲で積んでいこう。」

という覚悟がいっそう強くなりました。


ですので、この映画に出会えて、自分の生き方が
定まったようでとても良かったです。


決してrioさんの意見を否定している訳ではなく、
こういう風に感じる男もいるということを、
知っていただきたくメールいたしました。

それでは、失礼いたします。
by のぶりん (2008-03-15 00:31) 

rio

>のぶりんさん、コメントありがとうございます。

私はもともとロードムービーが好きなんですね。『ブロークバックマウンテン』は厳密な意味でのロードムービーとは言えないかもしれませんが、その風味が漂っている映画ですから、本来なら好みにあうはずなんです。

しかし「嫌だな」と感じてしまったことと、その理由は記事に書いた通りです。それは言葉をかえれば、のぶりんさんがコメントくださった「覚悟」が描かれることのないまま、ひたすら”哀れな末路”が強調されるストーリー(そしてそれは”時代の制約”の一言で説明されてしまっている感があります)になっていたからでした。

ある程度の分別がつく年齢、あるいは映画好きな人たちがこの映画を観た場合、セリフ、カメラワーク、原作との対比などから素晴らしいポイントをいくつも見つけられることだと思います。

それでもなお、10代、20代の若い層はこの映画を肯定的に観ることができるかどうかと考えた時に、一抹の不安がよぎるのです。

異性愛者であれ同性愛者であれ、この映画を観た若い世代の印象に一番強く残るのは「同性愛者の末路はおしなべて不幸だ」ということなのでないか。この疑問は今でもぬぐえません。

ハリウッドでなぜゲイ・ハッピーな映画が作られないのか。これは、ハリウッドはなぜ異性愛至上主義なのか、と尋ねるのと同じぐらいの愚問だとは分かっているつもりです。

しかし、世界規模でハリウッドの価値観が影響力を持っている現状では、あえて「なぜ」を問うことも大切なのではないかと思うのです。

リー監督は、映画に美しい自然、美しい男たちを配置して異性愛者たちの嫌悪感を和らげ、登場するすべての同性愛者を不幸にすることでハリウッドへのエクスキューズとしています。一方、先のコメントで指摘されているように、いくつかの描写は同性愛者にとって「ありえない」=リアリティがないものでした。となると、監督の視線の先にいたのは、商業ベースの大多数を占める「異性愛者の観客たち」だけだったのではないかとも思えてしまいます。

繰り返しになりますが、若い世代、自己の性について確信が持てない世代ほど、こうした打算的な仕掛けについて敏感に感じ取り、悩みを深くするのではないかと懸念します。

のぶりんさんがご経験なされたような感情の動き、そこからくる認識や覚悟を正面から描いたようなハリウッド映画ができれば、それはとても肯定的な、ポジティブな作品になると思います。

あるいは、『ブロークバックマウンテン』と時代設定がほぼ同じで、日本でもベストセラーとなった『潮騒の少年』が映画化され、比較対象になれば、『ブローク~』の”嫌な感じ”がもっと伝わるのかもしれないと妄想しております。

by rio (2008-03-15 01:40) 

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