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映画「博士の愛した数式」 [レビュー]

封切りを映画館で見たときの印象が強く、レビューを書いていました。
きょうフジテレビ系列でやっていたのを見て思い出し、レビューを
引っ張り出してきました。テレビ版では、能の江口のシーンがカット
されていました。2時間枠に入らないのと、哲学的なのでお茶の間には
受けないと判断したのでしょうか。あの場面がないと映画の価値は
半減以下になるんだけどなあ。

 

 原作も映画も、友愛数や完全数など数字にまつわるさまざまな
興味深いエピソードを中心にストーリーが展開します。書物なら
ややこしい数字の話は、説明にページを割くことができる。読者は
何回か読み返してから先に進めばいい。でも、映画ではそうは
いきません。

 この難題を、原作の語り手=家政婦から、映画の語り手=高校で
数学の教師をしているルート、に変えることで、見事にクリアして
いました。ルートが、新年度の初めての授業で、数学の導入として博士
との思い出を語る。思い出話の中だけでは説明し切れない数字の
エピソードを、授業の導入として生徒に解説する。板書をしながら解説する
ルートだけを映すことで、視聴者も、生徒の立場で数学の美しさに触れられる
仕掛けになっています。

 語り手が変わったことの効果はこれだけではありません。

 原作では、ルート出生にまつわる”不幸な”話や、ルートの母とその母
(ルートの祖母)との冷たい確執が、ルートの母によって語られています。
ジェンダーバイアスにとらわれている感もあるそうしたエピソードが、二人が
博士と過ごす時間を大切にする背景になっているのです。

 しかし、映画では、↑この部分が、ばっさりと削られました。なぜか?
自分の出生にまつわる話や、母と祖母の話をしなくても、語り手である
ルートが、「数学の教師として生徒に博士の思い出を伝えている」という
事実だけで、十分に博士と過ごした日々の大切さが伝わるからです。

 一方で、映画では、博士と義姉の関係に始めからスポットがあてられ、
原作よりもつっこんだエピソードも交えながら、丁寧に描かれています。
ルート出生にまつわる話に気をとられることなく物語が進むために、
義姉の心の揺れや、博士の子どもへの思いにじっくりと向き合うことが
できます。

 その象徴として、原作では(というより、活字では)絶対に描けない
映画ならではの仕掛けが登場しました。博士と義姉が薪能「江口」を
観る場面です。この場面、事故前の回想シーンととらえている方が
他のブログでは多いようです。しかしこれは、博士とルートが出会った
あと、二人が再び、能を見た場面なのではないでしょうか(時間軸
がはっきり示されていなかったと思いますが、違ってたら教えてください)

 調べたところでは、江口は、いまの大阪市東淀川区あたりの遊郭。
西行法師が一夜の宿をお願いしたところ、遊女に断られます。西行が、
愚痴を和歌にして送ったところ、「あなた坊さんでしょ」と和歌でたしなめ
られたという話がベースにあります。

 能では、ある夜、旅の僧が「江口の君」の旧跡を訪れたときに西行の
エピソードを思い出し、西行が愚痴った和歌「世の中を厭ふまでこそ
難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」(世の中に嫌気がさして世捨て人に
なってしまうってのはたぶん難しいと思うよ。一夜の宿を貸すことも惜しむ
なんてさ…)を口にしたところ、江口の君の幽霊が現れます。

 江口の君は、西行に宿を貸さなかった理由「家を出づる人とし聞けば
仮の宿心とむなと思ふばかりぞ」(あなたは出家している人だって聞いた
ので、遊郭を一夜の宿にしてそこに心を留めたりしないでほしいと
思うばかりです)を、旅の僧に説明して消えます。旅の僧が夜更け、
江口の君の霊を弔っていると、江口の君が再び現れ、遊女時代の思い出を
舞で表現し、そのまま普賢菩薩になって西の空へ飛び立ちます。

 高僧(西行)と遊女(江口の君)。博士と義姉。かつて「江口」を観た
二人は、帰りに交通事故を起こし、博士は記憶が、義姉は足が不自由に
なります。博士が仮の宿りを乞わなければ…義姉が遊女のように毅然と
した態度を示せれば…。以来、二人と、義姉の部屋に飾られている
こけし=子消しは、ずっと「eのπi乗=-1」だった。eは博士、πiは義姉と
身ごもった子。

 しかし、二人は家政婦とその子ルートに出会う。旅の僧と出会った
江口の君の幽霊が普賢菩薩へと昇華していったように、二人との
出会いで、数式は「eのπi乗+1=0」に変わり、義姉の「木戸」が
開かれる。eは博士、πiは家政婦とルート、+1は義姉。二人が
手を取り合って見た薪能は、こうした流れを象徴する場面では
ないでしょうか。

 原作は、物語は「eのπi乗+1=0」をピークにクライマックスへ
向かい、博士の愛した”数字”=完全数28、に収斂されます。
しかし映画は、完全数28のエピソードも含めたすべての物語が、
タイトルどおり、博士の愛した数式「eのπi乗+1=0」に収斂される
のです。数式で表現された”人と人とのつながり”の美しさと重みが、
原作を超えて、しっかりとした手ごたえで伝わってくるのはそのため
なのでしょう。


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