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映画「プリシラ」 [レビュー]

ずっと探してた映画「プリシラ」のDVDがついに手に入りました(祝)。シドニーでさんざんっぱら探したんだけどなかったんだよなあ。チャイナタウンで格安の海賊版ばかりみてたからだろうか。

1994年のオーストラリア映画。イギリスの名優テレンス・スタンプ、日本では「マトリックス」や「ロード・オブ・ザ・リング」で知られている(らしい。観たことないからわからない)ヒューゴ・ウィーヴィング、「メメント」や「LAコンフィデンシャル」で知られている(らしい。これも観たことない)ガイ・ピアースの3人がドラッグクイーンの役柄で共演。シドニーから砂漠の街アリス・スプリングスまで、おんぼろバス「プリシラ」号で旅をするロードムービーです。

ドラッグクイーンとは、要するにド派手な格好で歌い踊るオカマ。といっても歴史は古く、1600年代ごろにさかのぼるらしい。その頃のイギリスでは、舞台に女性が上がることが禁じられていたため、男性や少年が女性役もこなしていた。その時に引きずる(drag)ほどの衣装を身につけていたことから、呼び名がついた。ってなことがDVD内で説明されてました。日本の若衆歌舞伎とか野郎歌舞伎とほぼ同じ時期、同じ歴史でちょっと驚きです。

なーんて偉そうに書いてみたところで、シドニーから帰国するまではほとんどなにも知らなかった。映画は観たことなかったし、ドラッグクイーンだってバラエティ番組で見たことがあっただけで興味がなかったんだな。いや、正直に書こう。「第3の性」とかブログに偉そうな記事を書きつつ、ドラッグクイーンに対しては偏見があったのだ。テレビの影響のせいにしてしまうけれど、ドラッグクイーンといえば、ギラギラのダサい衣装、粉がふいてるような気持ち悪いメイク、オネエ言葉とおっさん声、ってイメージしかなかったから。ところが。シドニーで見たドラッグクイーンはかっこよかった。そう、映画の中のガイ・ピアースみたい。スタイルがいいし、メイクもうまい。ちょうど「プリシラ」がミュージカルになってロングランされている時期だったのもあるんだろうけど、あちこちでよく彼女たちを見かけたのだ(本来はドラッグクイーンの格好でうろついたりしないらしいから、たぶん宣伝だったんだろうな)。

それで興味を持って、帰国してからレンタル。そしたら、ドラッグクイーンどうのこうのより懐かしいオーストラリアの映像にはまってしまって、安く手に入らないかなあと探してたのでした。ちなみに、ヤフーオークションに未開封品が安く出てて、運よく落札。めでたい。

初めて観たときは「なにかと生きづらさを感じている3人のオカマが、それでも明るく希望を持って旅をする話」って捉え方をしていた。そういう映像になってるからね。でも、セリフや表情、カメラワーク、挿入歌をきちんと追って行くと、そんな能天気な映画じゃなかった。旅の過程で、3人はそれぞれに夢をかなえる。でもそれがハッピー・エンドになる保証はない。映画の冒頭で、シャリーンの大ヒット曲「I've never been to me」に託して現実の厳しさを示し、敢えてそこに挑戦する姿を描く仕掛けだったんだなオーストラリア映画は低予算で知られてるけど、ハリウッドみたいにばかげた予算をかけなくてもこれだけ深い映画が作れるのだ。素晴らしい。


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映画「皇帝ペンギン」 [レビュー]

皇帝ペンギン プレミアム・エディション 2005年のフランス映画。南極の皇帝ペンギンの繁殖サイクルを追った
 ドキュメンタリーで、日本では2006年夏に公開されたのかな。
 THUTAYAでレンタル。この映画をいつのも手口でパクッって作られた
 のが2006年のハリウッド製アニメ「ハッピー・フィート」だそうな。日本
 では2007年春公開かな。
 
 
「ハッピー・フィート」はシドニーで見たけど、前半はとも かく後半はお粗末な内容だった。理由はこのDVDを見てよくわかった。前半はほとんどこの映画からアイデアをパクリ、後半はハリウッドオリジナルの脚本だったのだ。
 
それはさておき、この映画は、皇帝ペンギンの生活を1年以上にわたって撮影し、それを編集した構成になっている。そこに夫婦と男の子のナレーションが適宜流れ、編集の意図を補う仕掛けになっている。
 
映像、ナレーションともに抑制が効いていて、自分も皇帝ペンギンのコロニーの近くで観察しているような気分になる。成鳥の頭部は黒いため、表情がはっきりとは分からない。それが抑制的な演出によく合っている。ハリウッド的な手法が使われていたのはアザラシのシーンぐらいで、ほかは全編にわたってフランス映画らしい芸術性の高さがうかがえる。映画の中の南極はとても色彩豊かだ。だからこそ、その過酷さが真に迫る。
 
カメラは、群れからはぐれてさまよう者、極寒の大地に転がって割れた卵、パニックになった若夫婦、襲われるヒナや親鳥、寒さに耐え切れなかったオス、ヒナを失くした母鳥の狂気などなど、一年を通じた営みの中での事件も淡々と描いていく。ことさら強調してお涙頂戴にするのではなく、避けるのでもなく。やがて育つヒナは育ち、夏が来れば一人立ちして海へ泳ぎだす。
 
過酷な条件下で種の存続を粛々とくり返すペンギンたち。カミュの『シーシュポスの神話』のようだ。「氷河期にみんなほかへ移ったのに、私たちだけはここに残った」というナレーションで始まるこの映画は、「存在とは何か」という根源的な問い、おそらく哲学上で最も古くからあるテーマを内包している。何万語を費やしても答えはでない。存在は存在においてしか存在しないからである。ペンギンたちはそんなことを思うでもなく一年を過ごしているのだけれど。

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石川くんといえば… [レビュー]

石川くんといえば啄木でしょ。

遼くんでしょう、という反論が返って来そうですが、それはそれ。ゴルフの石川遼は確かに見ていて心地よいですね。”ハニカミ王子”とかいう嫌がらせのようにだっさいあだ名をつけられて気の毒ですが、それにめげずに着実に目標に向かってほしいと思います。ちなみに、名づけたのは瀬戸内海放送多賀公人アナウンサーです。それをスポーツ新聞が広めました。フジテレビは「サンバイザー王子」、読売新聞は「グリーン王子」と、目を覆いたくなるようなあだ名を繰り出していました。マスコミの方々は、就職前には持っていたはずの羞恥心を取り戻してほしいと思います。

それはさておき、話題は明治時代の石川くん。          

石川くん

       「ほぼ日刊イトイ新聞」に2001年5~7月にかけて
       連載されたコラムの文庫化です。筆者の枡野浩一は
       歌人・ライター。彼が石川くんの歌を現代語に翻訳しつつ
       わがままでプライドが高くてダメ人間な石川くんにいじわる
       なことを言う趣向。(集英社文庫/2007年4月)

文庫化されて間もないのにBook-Offで売られてました。期待せずに買ったら結構おもしろかった。

石川くんは13か14歳のときに出会った彼女と19歳で結婚。でもその直前にパパが住職をクビになって一家は寺を追い出され、石川くんは自分の結婚披露宴に出ずやがてパパは家出し、嫁いだおねえちゃんは亡くなり、ママは結核になり、勤めた会社で上司ともめたり火事にあったりしたあげく、ママと奥さんをほったらかして東京へ移住。ちなみに、ママと奥さんは犬猿の仲。東京では会社をさぼり親友の金田一くんにタカリながら芸者といちゃいちゃ。待ちかねた家族が上京してきたものの、ママの結核は悪化、待望の長男は一ヶ月で亡くなり、パパはまた家出して、石川くんも結核に。妊娠8ヶ月の奥さんを残して26歳で死んだ後、全集が刊行されて大ヒット。ベストセラー作家となったのでした。

これが巻末についている”枡野式石川くん年譜”の概要です。いやー、ぜったい真似したくない人生ですな。すでに26年以上生きてるけど。

それでもってこんな歌を作ってます。右側は枡野翻訳。

一度でも我に頭を下げさせし     一度でも俺に頭を下げさせた
人みな死ねと               やつら全員
いのりてしこと               死にますように

その膝に枕しつつも          ひざまくらしてもらいつつ
我がこころ                 俺がふと考えるのは
思ひしはみな我のことなり       自分のことだ

誰が見ても                全人類が
われをなつかしくなるごとき      俺を愛して泣くような
長き手紙を書きたき夕        長い手紙を書きたい夜だ

どうですか、これ。学校教育だと、カニと戯れたり、じっと手を見たり、母をおんぶしたり、方言を聞きに駅までいったり、って歌しか教わらないですよね(「石川くん」にはこれらの歌も収録されてます)。でも石川くんはこういう人。友達になりたくねーって感じでしょう?実際、次々と友達に絶交され、唯一といっていい金田一くんの悪口まで日記に書いてしまうような人だったのです。素敵です。


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向田邦子 果敢なる生涯 [レビュー]

 世田谷文学館で27日まで開かれている企画展のタイトルです。「美しくなくてもいい、最後まであきらめず、勇猛果敢に生きてやろう」。エッセイから引用したキャッチコピーが光ります。向田邦子が飛行機事故で亡くなってから25年。生誕地の世田谷でその生涯を振り返る企画です。

 向田邦子のエッセイを初めて読んだのは中学1年生の時でした。推薦図書かなにかに、『父の詫び状』と『眠る盃』が選ばれていて、それを見た父が文庫版を買って来たのでした。
 思春期の子どもが親から渡された知らない作家の本を素直に読むはずもありません。向田邦子が脚本家であることも、直木賞をとったことも、飛行機事故ですでに亡くなっていることも知らなかったのですから、興味のわくはずもありません。そんなわけで、しばらくほったらかしにしていたのです。

 しかし、元来の読書好きで濫読の盛りですから手持ちの本はあっという間に読み終えてしまいます。ある日、ついに何も読むものが無くなって、これでも読んでみるかという具合に『眠る盃』を手に取ったのでした。
 読み出したらもう止まりませんでした。向田邦子が書いた大人の世界の機微など、中学生に分かるはずもありません。しかし、大人の入り口にあって、「大人とは何か」という”謎”と葛藤していたさなかです。読めば答えにたどりつけるような気がして読み進んだのでした。

 2冊ともすぐに読み終え、小遣いをはたいて次々に”向田邦子シリーズ”をそろえ始めました。何度も何度もくり返し読み、タイトルと最初の1行で、内容と構成をすぐに説明できるほどになりました。
 自立とは何か、暮らすとは何か、譲るべきものと譲ってはならないものの境界線。「矜持」という概念を知ったのもエッセイからでした。ほかにもさまざまなものの見方、考え方、そしてそれらをいかに表現するか、簡潔でビジュアルな文章技術も向田邦子のエッセイから学びました。節目、節目に読み返し、自分がどこまで成長したか、どういうふうに成長しているかを確かめる基準でもありました。

 『夜中の薔薇』の中に、「手袋をさがす」というエッセイがあります。自分にあった手袋を見つけられず、手袋なしで過ごした22歳の冬をつづっています。それ以来(おそらく亡くなるまで)、向田邦子は手袋を探し続けたのでしょう。「美しくなくてもいい、最後まであきらめず、勇猛果敢に生きてやろう」。ベリーロールな日々は、この精神を出発点にしているのです。


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映画「博士の愛した数式」 [レビュー]

封切りを映画館で見たときの印象が強く、レビューを書いていました。
きょうフジテレビ系列でやっていたのを見て思い出し、レビューを
引っ張り出してきました。テレビ版では、能の江口のシーンがカット
されていました。2時間枠に入らないのと、哲学的なのでお茶の間には
受けないと判断したのでしょうか。あの場面がないと映画の価値は
半減以下になるんだけどなあ。

 

 原作も映画も、友愛数や完全数など数字にまつわるさまざまな
興味深いエピソードを中心にストーリーが展開します。書物なら
ややこしい数字の話は、説明にページを割くことができる。読者は
何回か読み返してから先に進めばいい。でも、映画ではそうは
いきません。

 この難題を、原作の語り手=家政婦から、映画の語り手=高校で
数学の教師をしているルート、に変えることで、見事にクリアして
いました。ルートが、新年度の初めての授業で、数学の導入として博士
との思い出を語る。思い出話の中だけでは説明し切れない数字の
エピソードを、授業の導入として生徒に解説する。板書をしながら解説する
ルートだけを映すことで、視聴者も、生徒の立場で数学の美しさに触れられる
仕掛けになっています。

 語り手が変わったことの効果はこれだけではありません。

 原作では、ルート出生にまつわる”不幸な”話や、ルートの母とその母
(ルートの祖母)との冷たい確執が、ルートの母によって語られています。
ジェンダーバイアスにとらわれている感もあるそうしたエピソードが、二人が
博士と過ごす時間を大切にする背景になっているのです。

 しかし、映画では、↑この部分が、ばっさりと削られました。なぜか?
自分の出生にまつわる話や、母と祖母の話をしなくても、語り手である
ルートが、「数学の教師として生徒に博士の思い出を伝えている」という
事実だけで、十分に博士と過ごした日々の大切さが伝わるからです。

 一方で、映画では、博士と義姉の関係に始めからスポットがあてられ、
原作よりもつっこんだエピソードも交えながら、丁寧に描かれています。
ルート出生にまつわる話に気をとられることなく物語が進むために、
義姉の心の揺れや、博士の子どもへの思いにじっくりと向き合うことが
できます。

 その象徴として、原作では(というより、活字では)絶対に描けない
映画ならではの仕掛けが登場しました。博士と義姉が薪能「江口」を
観る場面です。この場面、事故前の回想シーンととらえている方が
他のブログでは多いようです。しかしこれは、博士とルートが出会った
あと、二人が再び、能を見た場面なのではないでしょうか(時間軸
がはっきり示されていなかったと思いますが、違ってたら教えてください)

 調べたところでは、江口は、いまの大阪市東淀川区あたりの遊郭。
西行法師が一夜の宿をお願いしたところ、遊女に断られます。西行が、
愚痴を和歌にして送ったところ、「あなた坊さんでしょ」と和歌でたしなめ
られたという話がベースにあります。

 能では、ある夜、旅の僧が「江口の君」の旧跡を訪れたときに西行の
エピソードを思い出し、西行が愚痴った和歌「世の中を厭ふまでこそ
難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」(世の中に嫌気がさして世捨て人に
なってしまうってのはたぶん難しいと思うよ。一夜の宿を貸すことも惜しむ
なんてさ…)を口にしたところ、江口の君の幽霊が現れます。

 江口の君は、西行に宿を貸さなかった理由「家を出づる人とし聞けば
仮の宿心とむなと思ふばかりぞ」(あなたは出家している人だって聞いた
ので、遊郭を一夜の宿にしてそこに心を留めたりしないでほしいと
思うばかりです)を、旅の僧に説明して消えます。旅の僧が夜更け、
江口の君の霊を弔っていると、江口の君が再び現れ、遊女時代の思い出を
舞で表現し、そのまま普賢菩薩になって西の空へ飛び立ちます。

 高僧(西行)と遊女(江口の君)。博士と義姉。かつて「江口」を観た
二人は、帰りに交通事故を起こし、博士は記憶が、義姉は足が不自由に
なります。博士が仮の宿りを乞わなければ…義姉が遊女のように毅然と
した態度を示せれば…。以来、二人と、義姉の部屋に飾られている
こけし=子消しは、ずっと「eのπi乗=-1」だった。eは博士、πiは義姉と
身ごもった子。

 しかし、二人は家政婦とその子ルートに出会う。旅の僧と出会った
江口の君の幽霊が普賢菩薩へと昇華していったように、二人との
出会いで、数式は「eのπi乗+1=0」に変わり、義姉の「木戸」が
開かれる。eは博士、πiは家政婦とルート、+1は義姉。二人が
手を取り合って見た薪能は、こうした流れを象徴する場面では
ないでしょうか。

 原作は、物語は「eのπi乗+1=0」をピークにクライマックスへ
向かい、博士の愛した”数字”=完全数28、に収斂されます。
しかし映画は、完全数28のエピソードも含めたすべての物語が、
タイトルどおり、博士の愛した数式「eのπi乗+1=0」に収斂される
のです。数式で表現された”人と人とのつながり”の美しさと重みが、
原作を超えて、しっかりとした手ごたえで伝わってくるのはそのため
なのでしょう。


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映画「The Queen」 [レビュー]

 主演のヘレン・ミレンがアカデミー賞主演女優賞をとった作品。日本では4月末に公開されたけど、ヒットしているんだろうか。オーストラリアでは日本よりかなり早く公開され、いつも満席だった。関心の高さはそりゃまあ違うよね。

 それでもやっぱり、この映画はいい。故ダイアナを巡るさまざまなニュース。、ゴシップにまったく興味がない人にでもお勧めできる。『The Queen』は観る人によっていろいろな見方ができるからだ。これこそ、名作に必須な条件だと思う。

 シドニーのメディアでは、ヘレン・ミレンをはじめ出演者が「似ている」という点を強調した評論が多かったように思う。しぐさ、しゃべり方のクセ、使う単語や文法など、ネイティブじゃなければ分からないようなところまでほぼ完璧に似せていたらしい。特に、ブレア首相の奥さん役(下世話でがさつな女に描かれている)の登場シーンは大うけだった。

 タウンホール駅で配っていたフリーペーパーの映画コラムは、エリザベス女王の普段着に注目していた。ニュースでみる女王はもちろん正装をしている。しかし、一人でランドローバーを運転して狩場へ向かうエリザベスは「どこぞのオバハンやねんっ!」と大阪弁で突っ込みたくなるような格好なのだ。いや、あれには大阪のオバハンも「負けてもうた!」と思うんじゃないだろうか。

 ところが、その直後に、この映画で最高のシーンが用意されている。ヘレン・ミレンが主演女優賞を取った理由は、ただ女王に似せたというだけでなく、このシーンを演じきったからだろう。

 この点を、日本での公開前から指摘していたのが映画評論家のおすぎだ。おすぎは「このシーンを見るだけでも価値がある」と言い切っている。 

 そうしてもう一人、文芸評論家の福田和也も週刊新潮の連載「闘う時評」(5月17日号)の中で、この点を評価している。保守の立場でエリザベス女王への共感(とイギリス国民への軽蔑)をお上品な嫌味にくるんで述べている流れの中で、「もっとも驚嘆すべきは、そうした外面的類似ではなく(中略)女王の葛藤と諦めを演じているということ」と書いている。そうそう、そうなんだよ。その心理描写をセリフ無しで演じきったのだ。福田の立ち位置にはまったく共感しないが、「」の中は賛成できる。

 すべてが決着し、時代の変化に寂しさを感じているエリザベス女王を、ブレア首相が優しくフォローするラストシーンがまた、いい。この映画を単なる覗き見に終わらせず、完成度を高めていると思う。映画を観ていないイギリス人の友人は「この映画はクイーンが怒るんじゃないか」と心配していたが、女王はこの映画を「いい映画だった」と評価したそうだ(←シドニーの新聞で読んだ気がする。間違ってたらすみません)。

 シドニーでも日本でも、「実際のニュース映像を使うのは反則技じゃないか」といった批判はあった。そういった杓子定規な視点はつまらないなと思う。挿入されるニュース映像はまったくうるさくなく、むしろ当時の衝撃を思い出させる装置としてうまく機能していると思う。

 「日本だったらこんな映画、絶対にできないよな」という声もあちこちから聞こえてくる。作れる人はいると思う。観る側も冷静に鑑賞できるレベルに達していると思う。今の皇太子なら作っていいよ、と言うんじゃないかとも思う。だがしかし、宮内庁が絶対に認めないんだろうなあ。

 


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